
17世紀初頭のイギリスは、政治的・宗教的な緊張が高まる時代でした。絶対王政を確立しようと試みるチャールズ1世と、議会が持つ権限を守ろうとする勢力との間で激しい対立が生じていました。この時代の転換点となった出来事こそ、「名誉革命」です。
名誉革命は、1688年にイングランドで行われた無血のクーデターであり、ジェームズ2世を廃位し、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治へと移行しました。この革命は、単なる王位継承の争いではなく、イギリスの歴史において大きな転換をもたらした出来事であり、その影響は現代のイギリスの政治体制にも深く根ざしています。
名誉革命の背景:宗教対立と王権強化の攻防
名誉革命の背景には、長年にわたる宗教対立と王権強化の攻防がありました。16世紀のリチャード3世の廃位以来、イングランドではカトリックとプロテスタントの間で激しい宗教紛争が続いていました。1603年にはスコットランド王ジェームズ6世がイングランド王ジェームズ1世として即位し、両国の統合を目指しましたが、宗教問題については解決されませんでした。
ジェームズ1世の後継者となったチャールズ1世は、カトリックへの傾斜を強め、議会との対立を深めました。彼の王権強化策に対し、議会は抵抗を示し、最終的に内戦へと発展しました(イングランド内戦)。
内戦の結果、チャールズ1世は処刑され、共和制が樹立されました。しかし、共和政は長くは続きませんでした。オリバー・クロムウェルが率いる共和国政府は、国内の混乱と宗教的対立を解決できず、やがて崩壊しました。
ジェームズ2世の即位とカトリック信仰の問題
1660年にチャールズ2世が復元し、王政が復活しましたが、彼の後継者となったジェームズ2世はカトリックであり、その宗教政策は議会を不安にさせました。ジェームズ2世は、カトリックの公職就任を容認するなど、カトリック信仰への優遇策を打ち出しました。
このため、多くのプロテスタント貴族や政治家は、ジェームム2世の治世がイギリスの宗教的安定を脅かすものと考えていました。彼らは、ジェームズ2世の王位継承を認めず、新たな君主を求めて動き始めました。
ウィリアム3世とメアリー2世の招聘:無血革命の成功
その中で注目されたのがオランダのウィリアム3世でした。ウィリアム3世は、メアリー2世(ジェームズ2世の娘)と結婚しており、プロテスタントの信仰を持つ君主でした。イギリスの反カトリック勢力は、ウィリアム3世を招聘し、ジェームズ2世の廃位を求めました。
ウィリアム3世は、イギリス議会からの要請を受け入れ、1688年に軍隊を率いてイングランドに上陸しました。ジェームズ2世は抵抗を試みるも、国内支持を得られず、フランスに亡命しました。こうして、ウィリアム3世とメアリー2世が共同統治を開始し、「名誉革命」と呼ばれる無血のクーデターが成功したのです。
名誉革命の影響:立憲君主制の確立と宗教寛容
名誉革命は、イギリスの歴史において重要な転換点となりました。この革命によって、王権が制限され、議会が政治におけるより大きな役割を果たすようになりました。また、カトリックに対する弾圧が緩和され、宗教的寛容の原則が確立されました。
ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治 | |
---|---|
1689年: イギリス議会は「権利の宣言」を制定し、王権の制限と国民の権利を保障しました。 | |
1690年: ウィリアム3世はアイルランドでジェームズ2世の支持者を鎮圧する「ボインの戦い」に勝利しました。 |
名誉革命の結果、イギリスは立憲君主制へと移行し、現代の民主主義国家としての基礎を築きました。また、宗教的寛容の原則が確立されたことで、イギリス社会における宗教対立が緩和され、文化的多様性が育まれました。